神々の庭、上高地。梓川の清流が磨いた白い石、見上げれば穂高の峰々が空の青を切り取り、澄み切った空気が肺をみたす。その清浄な美しさに圧倒され、私たちはただ黙々と歩を進める。河童橋の喧騒を背に、明神池へと続く静かな小径へ。木々の間を縫うように歩いていると、ふと、古びた木造りの山小屋が目に留まった。そこに掲げられた、少し風変わりな名前の看板。
「カフェ・ド・コイショ」
思わず口に出して読み返してしまう。フランス語のような洒落た響きと、日本語の温かい響きが不思議に溶け合ったその名前に、心がきゅっと掴まれた。まるで「さあ、ここで一休みしなさい」と、優しい声で招き入れられたような気がしたのだ。
ランプの灯りが揺れる、時を忘れる空間
吸い寄せられるように扉を開けると、そこは外界とはまるで時間の流れが違う、静謐な空間だった。昼間にもかかわらず、店内を照らすのは煌々とした電灯ではない。テーブルのあちこちで、オイルランプの柔らかな炎がゆらゆらと揺れている。自家発電のため、日中は電気を使わないのだという。その薄明かりが、磨き上げられた木の床や柱に深い陰影を作り出し、なんとも言えない落ち着きと温もりを醸し出している。

窓の外には、上高地の鮮やかな緑が絵画のように広がり、静かに流れるジャズの音色が、鳥のさえずりと心地よく混ざり合う。都会のカフェのような洗練とは違う、けれど、どこまでも深く心に染み入るような贅沢が、ここにはあった。歩き疲れた身体が、ゆっくりとほどけていくのを感じる。
ひとくちの甘さが、心を溶かす
メニューを手に取り、こだわりのコーヒーと、多くの人が絶賛していたクリームブリュレを注文する。しばらくして運ばれてきたのは、表面が香ばしくキャラメリゼされた、見るからに美しい一皿。スプーンで軽くたたくと、パリッと心地よい音が響く。その下から現れたとろりとしたカスタードは、驚くほど滑らかで、優しい甘さが口いっぱいに広がった。注文を受けてからバーナーで仕上げてくれるという、そのひと手間が嬉しい。

丁寧にハンドドリップで淹れられたコーヒーの、深いコクと香り。窓の外の景色を眺めながら、甘い余韻に浸る。ただ歩くだけでなく、こうして五感でこの地の恵みを味わう時間こそが、旅の記憶を豊かにしてくれるのだと、改めて思う。

「どっこいしょ」という、温かいおまじない
このカフェの名前の由来は何だろう。ずっと心にあったその疑問を、お店の方にそっと尋ねてみた。すると、実に心温まる答えが返ってきた。
このカフェが併設されている山小屋「山のひだや」の先代、おじいちゃんの口癖が「どっこいしょ」だったのだという。その言葉を大切に引き継ぎ、フランス語風に「カフェ・ド・コイショ」と名付けたのだそうだ。
その話を聞いた瞬間、点と点が繋がるように、このカフェが持つ優しい空気の理由がわかった気がした。
山道を登り、重い荷物を下ろして、思わず「どっこいしょ」と一息つく。あるいは、長い人生の道のりの途中で、少し疲れて「どっこいしょ」と腰を下ろす。それは、頑張ってきた自分を労わる、素朴で温かいおまじないのような言葉だ。
このカフェは、訪れる人々が、そんな風に肩の力を抜き、心から安らげる場所でありたいという、優しい願いが込められた場所なのだ。
上高地の神々しいまでの自然に抱かれ、私たちはつい、背筋を伸ばして歩き続けてしまう。けれど、この木漏れ日の小径の先には、私たちの疲れた足をそっと受け止め、「どっこいしょ」と微笑んでくれるような、温かい灯火が待っている。
もしあなたが上高地を訪れるなら、ぜひ明神池への道を歩いてみてほしい。そして、この優しい名前のカフェの扉を開けてみてほしい。きっと、忘れられない一杯のコーヒーと、心のこもった「どっこいしょ」という魔法が、あなたの上高地の思い出を、より一層深く、温かいものにしてくれるはずだから。

Information & Map / 店舗情報と地図
カフェ・ド・コイショ(山のひだや併設)
- 住所: 〒390-1516 長野県松本市安曇上高地
- 定休日:水・木
- アクセス: 上高地バスターミナルから梓川左岸の遊歩道を明神方面へ徒歩約50分。明神橋の手前にあります。
- 補足: 上高地は冬季(例年11月中旬〜4月中旬頃)閉山となります。営業期間や時間については、事前に公式サイトなどでご確認いただくことをお勧めします。


